ピアノが死ぬ日
ピアノの寿命は100年なのだという。
それもきちんと手入れをすれば、という話で、なんの手入れもしなかったらせいぜい30年。
もう寿命がきて、ピアノとしての機能を失い、誰も弾かなくなったような古いピアノがいつまでも置いてある・・・という家もあるだろう。
けれど、私の家はそうではなかった。
あうるすぽっとでやっている、スガダイロー5夜公演『瞬か』。
フリージャズピアニストであるスガダイローが、様々な分野のパフォーマーと即興でライブを繰り広げる。
ピアノの生と死というものを、即興によって劇的に表現した舞台だった。
古い、寿命の尽きたピアノが次々と死んでいく様を観ていて、もうとっくに死んでしまったであろうかつての私のピアノを想わずにはいられなかった。
舞台上には、スガダイローによって奏でられるグランドピアノのほかに、白い布に覆われた様々な形の古いピアノが5台置かれている。
この舞台には最初から不穏な空気が流れていた。
古いピアノに被せられた白い布を剥ぎ取り、ピアノの間を危なっかしく泳ぐ飴屋。その動きに呼応するかのように、スガのピアノもどこか不穏な空気を孕んでいる。
飴屋は古いピアノの蓋を開ける。動くうちに、古いピアノの鍵盤に触れ、鈍い音が響く。それがスガの奏でるピアノの音と混じり合い、気持ち悪くなりそうな不協和音が生まれる。
飴屋はピアノの歴史を語る。
約300年前に今のピアノは誕生した。日本でピアノが製造されるようになったのは、約100年前。たかだか100年前なのだ。
そして飴屋は言う。
「ピアノの寿命は100年・・・」
この言葉を聞いたとき、涙がこみあげ、止まらなくなってしまった。
私は私のピアノを想った。
手入れをしなければピアノの寿命は30年だとしたら、私のピアノはもうとっくに死んでいるのだろう。きっと何年も前に、どこかでバラバラに解体され、ピアノじゃなくなってしまったのだ。私以外、誰もあのピアノのことなんて覚えてない。そう思ったら、失ってしまったあのピアノがひどく愛おしくなった。
私が4歳から19歳まで弾いていたピアノ。たくさんの思い出があり、私にとって大切なピアノだったのに、私が上京するとほどなくして、母親が勝手に二束三文で売り飛ばしてしまった。母いわく、「邪魔だったから」。ピアノは一度置くと動かせない。動かすには業者を呼ばなければならない。弾く人がいないのにいつまでも置いておくのは効率が悪い。母にとってピアノは、「家のなかで思い通りにならない唯一のもの」だった。母はピアノを早くなんとかしてしまいたかった。だから業者に頼んでピアノを処分した。それでも、そのことを私に告げるのはさすがにためらわれたのだろう。私は実家に帰ったとき、ピアノがないことに気付き、そこで初めて私のピアノがいつの間にか処分されてしまったことを知った。そのときは、私はもう家にいないのだし、仕方ない、と思った。けれど、言葉にならない喪失感があった。母が売ったのはただのピアノではなく、実家で過ごしたかつての私なのだ、と思った。母は私を「家を出た人間」と見なした。そして私は、もう二度とこの家に「帰って」くることはないのだろう、と確信した。
そんなことを思い出しながら舞台を観ていたら、「ピアノの寿命は100年」と言った飴屋が、ハンマーを手にして目の前にあった古いグランドピアノの足を殴り付けた。
私は金縛りにかかったように身動きできず、息すらできず、ただただ信じがたい思いでそれを観ていた。
その行為は、単に「古いモノを壊した」というのではない。
私は自分が殴られたかのように感じ、ひどく息苦しくなった。
飴屋は、ハンマーで次々とピアノを壊していった。
様々な形をした古いピアノたち。ピアノとしての寿命は尽きているのかもしれないが、数十年もの間、誰かの手によって奏でられてきたという誇りと威厳を持ち合わせている。存在感を放つそれらのピアノが、ハンマーで執拗に殴られ、ピアノの形ではなくなっていった。
やがて、「ドシン」という大きな鈍い音と、劇場中に伝わる震動とともに、かつてピアノだったものは倒れ、完全に死んだのだった。
ピアノの残骸が転がるなか、死んだピアノの一部や、死んだピアノの椅子や、ピアノを殺したハンマーが吊り上げられた。
かろうじて原型を留めていたグランドピアノの回りに、キャンドルが置かれた。まるで死んだピアノを弔っているみたいに。
飴屋は静かに舞台を出て行き、死の標本のような光景だけが残った。
だが、その傍ら、生きているスガが、 生きているピアノを、これ以上ないほど激しく情熱的にかき鳴らしていた。
少なくとも数十年生きたピアノたちが、一時間足らずの間に破壊された。死は一瞬だ。想定外でもある。まさかピアノたちも、こんな劇的な死に方をするなんて思いもしなかっただろう。
私には、あのピアノたちはただのモノではなく、心を持っていたような気がした。ピアノ自身の心というより、それを弾いた人たちの心だ。
そして、物質的に死んだとしても、その心は死なない。スガのピアノを聴いていて、そう思った。
スガが去った舞台には、死んでしまったピアノたちが残された。
死んでしまったピアノたちは、なにも語らない。かつてそのピアノを弾いていた人たちの、遠い夢と記憶の残滓だけが漂っている。