消滅世界
村田沙耶香の小説『消滅世界』を読んだ。
人工授精で子どもを産むことが当たり前になった近未来の話。
男女が愛し合ってセックスし、結婚して子どもが生まれる、という形の「家族」は消滅し、セックスして子どもを作る人がいなくなる。
共に生活し、人生を共有するパートナーという意味での「結婚」はあるのだが、結婚相手は「家族」であるため、恋愛やセックスをすることは「近親相姦」となる。
結婚していても出産は人工授精だし、恋愛は外でする。
生殖とセックスが結びつかなくなると、恋愛や性欲の形も変わってくる。
恋愛対象が人ではなくなったり、人の恋人がいてもセックスをしなくなったりする。
やがて人工授精の技術が発達して男性も妊娠できるようになる。
そうなるともはや男女がペアでいる必要もなくなり、経済的な問題さえクリアできれば一人で子どもを産んで育てることも可能になる。
自分の産んだ子どもを自分で育てるのではなく、誰が産んだ子どもでも関係なく大人たちがみんなで育てる、という実験をする都市も出てくる。
作者はこういう世界を描くことによって、「家族」「結婚」「出産」「恋愛」「セックス」とはなんなのか?と読む者に揺さぶりをかける。
私が読んでいて思ったのは、ここで描かれている世界は一見ぶっ飛んでいるように思えるかもしれないが、ある意味シンプルなのではないか、ということ。
だって「子どもが欲しい」と思えば、人工授精で簡単に出産できるのだ。男性でもだ。
だからわざわざ結婚する必要がない。
性欲に振り回されることもなくなる。
恋愛がしたいと思えば、人とでも人じゃないもの(キャラクターとか)と恋愛すればいい。
この世界では「家族」「結婚」「出産」「恋愛」「セックス」から生まれるもろもろの煩わしさが一切ない。
楽ではないか?
そこには「孤独」「寂しさ」という概念もない。
なぜならみんなが等しく「ひとり」だからだ。
合理的な社会。
そんなのは味気ない、とは思う。
でも、楽だと思う。
今の世界で「家族制度」が続いているのは、単純にそれが一番理に適っていて、便利だからなのだと思う。
だけどもしかしたら、これから先、「家族制度」より便利なシステムができるのかもしれない。
今の日本はどうだろう?
カップル社会であるヨーロッパや、「家族」が重視される韓国や中国に比べれば、日本はまだ単身者に優しい国だ。
とはいえ「結婚」「子ども」「家族」は素晴らしいものだ、という考え方が当たり前なのは世界共通だし、子孫を残したいという気持ちは人間の本能だ。
だから人は結婚して子どもを作ろうとする。
子どもが欲しくて婚活している人たちは多い。
そういう人たちは最初からそれ目的だから、男は相手の女の年齢を重視し、女は男の経済力を重視する。
そうやって計画的に結婚・出産を進める。
もしも人工授精が気軽にできるようになれば、結婚をせず出産する人は増えるかもしれない。
必ずしも配偶者がいなくても、誰かサポートしてくれる人がいれば、子どもを育てることは難しくないのかもしれない。
他方で、結婚の目的は別に「子ども」だけではない。
皆、人生を共有できる相手を求めている。
結婚をすれば、精神的にだけじゃなく、物質的にも共有することになる。
それはある意味縛られる、ということだが、縛られることによって大きな安定を得られるわけだ。
・・・とここまで書いて、その「人生を共有できる相手」=「自分の子ども」であれば、人工授精で簡単に出産できるなら結婚しなくてもいいんだな・・・と気づいた。
子どもも好きなときに産めるし、恋愛もセックスも重視されない世界なら、孤独を感じることもなく、それはそれで平和に暮らせるのかも。
この小説に出てくる実験都市では、子どもがいない人でも「おかあさん」として不特定多数の子どもを可愛がることができるし、「おかあさん」同士もゆるやかにつながっている。
そこでは「さびしい」という言葉がない。
なぜなら、皆が同じだからだ。
すべての生物の目的が「繁殖」であり、人類もまたそうだとしたら、子どもを産んで育てるシステムさえ整えば、それ以外は必要不可欠ではなくなる。
だけど、そんなシステマチックな世界は、すべてが均一化されてしまう、という恐怖がある。
便利さや楽さだけを追求すると、生産性も創造性もない無機質な社会が出来上がる。