うつし世はゆめ

旅行記ほか、日常生活で感じたことなどを徒然と。

過去とか夢とか

年末年始は実家に帰省した。

12月31日に実家に帰り、1月3日に東京に戻ってきた。

いつもは31日に帰って2日に戻ってきてしまうので、今回は一泊多かったのだけど、ゆっくりできてよかった。

やはり三泊くらいしないと慌ただしいから。

実家でのんびりして、まあ食べて飲んで寝て……とグダグダ過ごしていた。

正月からあちこち精力的に出かけたり、なにか生産的なことをやったりしたいという気持ちもあるが、実家にいるとついダラダラしてしまう。

まあ、ゆっくりできて、家族と話したり、同級生と会ったりできたから、いいか。

でも、そうやって家族や同級生と話していると、必然的に「過去」に向き合うことになる。

上京する前の自分、というものに。

 

中学の同級生と会っていろいろな話をしたのだが、あることを言われて、うーん、と考えてしまった。

「もったいないよ!」と言うのである。

彼女が言うには、私には才能があるのに、それを生かせていないんじゃないか……と。

私は昔、小説家になりたくて書いていた頃もあった。

それなのに未だに自分の本を出していないじゃないか、ということを言いたいのだろう。

私の今やっている編集やライターの仕事は、才能のある人を取材して、その人の言葉や表現をまとめて記事にするというものだ。

それってつまりは他人をサポートする仕事であって、それはそれでいいかもしれないけど、あなたは自分自身の表現をしたいはずだったし、その才能があるはずじゃないの?と言われたのだ。

以前、妹にも似たようなことを言われた。

「お姉ちゃんは東京で本とかを出して有名になるんじゃなかったの?」と。

従兄にもそんなようなことを言われたことがある。

「親戚のなかで東京に出て仕事をしてる人はほかにいない。あなたは希望の星だ。東京で名を成してほしい」というような。

どうも地元の人には、「本を出す」とか「有名になる」というわかりやすい方法じゃないと、「才能を生かしている」と思われないようだ。

それで、私が未だに本の一冊も出していない、有名になってない、ということで、がっかりされたり、「頑張れ!」と思われたりしている。

しかし、そんな、又吉直樹みたいなことを期待されてもな……とも思う。

なんでみんなそんなに私のことを才能があるとか、東京で有名になれる、とか思うのだろう。

たぶん、地元の人にとっては、「東京に出て仕事をしている」ということ自体が「すごい」ことなんだろう。

そして、私が地元にいた頃はとにかく人と違う変わったことをやっていたから、それで「面白い、才能がある」と思われたのかもしれない。

しかし、実際に東京に出てきてみると、個性のある人、すごい人がいっぱいいて、私なんか全然普通なんだな……と思った。

歳を重ね、様々な分野で才能を発揮している人に取材したりするたびに、自分には自ら表現する才能がないんだ……という気持ちになった。

なにかを表現したい、という気持ちはあるのに、「自分なんか……」と思ってしまっていた。

去年、仕事関係の人たちと飲んだときも、「自分の表現っていったいなんなんだ?」と思ったのだった。

うーん。。。

これについては少し考えてみよう。

 

ともあれ、今年はこうして日々思ったことを、なるべくブログに記していこうと思う。

書き残しておかないと、そのときなにを考えていたのか、わからなくなる。

私は「十年日記」をつけているので、日々の行動の記録は残しているのだけど、考えたことまでは書いていないから。

昔は、ノートに日記を書いていて、その日起こったことだけでなく、それについて考えたこと、他人について考察したことなどをあれこれ書いていたのだけど、日々いろんなことが起こりすぎて日記が追いつかなくなり、やめてしまったのだ。

ノートに書く日記をやめてしまったら、過ぎ去った日々を振り返る手立てが自分の記憶だけになってしまい、とてもおぼつかない、空白の多いものになってしまった。

今回帰省して、自分の記憶力、というか観察力というのがとても低いということを思い知らされた。

妹たちや同級生と昔の話をあれこれしたときに、「そんなことあったっけ? そんな人いたっけ?」と思い出せないことが多かったのだ。

もちろんなににインパクトを受けたかということは人によって異なるから、私が覚えていないことをほかの人が覚えていたり、あるいはその逆パターンがあるのも当たり前だけども。

でも、仮にも物書きをしている人間が、ちゃんと物を見ていない、というのはまずい。

最低でも見たものを記録して覚えておいて、後日振り返る、そのことについて考える、ということは必要だろう。

そして、考えたことをこうして言葉にしていく、ということが一番大切なんだ。