うつし世はゆめ

旅行記ほか、日常生活で感じたことなどを徒然と。

私の2015年のまったくまとまりのない総括

2015年は、自分になにができてなにができないのか、ということを思い知らされた年だった。

思い切って転職したものの、いろいろあって来年の2月で辞めることに。

その過程で、自分の仕事の能力のなさ、コミュニケーション能力のなさを痛感した。

キャパオーバーの仕事を振られ、対人関係でもうまく立ち回れず、すべてが悪い方向へ行ってしまった。

自分の努力次第でもっとなんとかなったんじゃないか、と思ったりもするけれど、今考えても仕方がない。

結局できなかったわけだし。

要は、その仕事を頑張ってやろうというほどの気持ちが自分になかったということだ。

そこまでその仕事に興味を持っていなかったくせに、面白そう、自分にもできそう、などと安易に考えてしまったのかもしれない。

結果できずに自分も苦しんだし、会社にも迷惑をかけることになってしまった。

この会社ではほんとにいろんなことがあり、嫌な上司がいてパワハラみたいな目に遭ったりもした。

ひどい目に遭った、自分は被害者だ、という気持ちもあるけれど、会社のほうでは私を採用して失敗だった、と思っているだろう。

いろいろ思うところはあるが、もう済んだことだ。

気持ちを切り替えよう。

 

その一方、ライターとしての仕事は細々と続けることができた。

新しい媒体から声をかけていただき、微力ながらお手伝いすることに。

とはいえ、フリーライターとしてやっていけるほどのものではもちろんない。

だとすれば、また就職先を探さなければならないだろう。

私は今年、40歳になった。

この歳での就職は、なかなか厳しい。

正社員はもちろん、派遣社員ですら難しい。

けれど、やるしかない。

そうしなければ、食べていけないのだから。

 

なぜ40歳にもなって就職活動なんてしなきゃいけないのだろう……と思ってしまう。

周りの友達が眩しく見える。

大手の出版社で何年も働き、それなりの地位と収入を得ている友人。

フリーライターとして活躍し、たくさんの有名人に取材して記事を書いている友人。

3人の子どもの母となり、郊外に引っ越して旦那さんと農業をやっている友人。

皆、自分の居場所を見つけ、そこで活躍している。

もちろん、周りと自分を比べるのはナンセンスだ。

自分が羨ましいと感じる人も、その人なりの悩みを抱えているだろう。

そんなことは頭ではわかっている。

けれど、どうしても比べてしまう。

私は、未だに自分の能力を生かせる場所を見つけられていない。

自分の得意分野はあるし、そこでライターの仕事をさせてもらってもいるけれど、それはまだまだ趣味の延長だ。

では、それを究めればいいのではないか……とも思うけれど、自分がそのジャンルでどんなことをやりたいのか、つかめていない。

昔一緒に仕事をしていた人は、新たな媒体を自ら立ち上げた。

収入には全然なっていないようだけど、それでも自分のやりたいことが明確にあり、そこに向って動いている。

私はそこまで熱意を持って仕事に打ち込んだことがあっただろうか。

 

年齢を言い訳にするつもりはまったくないけれど、40歳にもなると、やはりできることは限られてくるように思う。

まったく未知のことはできない。

今まで自分が経験したことのあることしかできなくなるのだ。

もちろん、40代で新しい挑戦をして成功する人もいるだろう。

でもそれはごく一部だ。

本気でやりたいことがあり、本気で頑張れる人だけ。

だから大半の人は、自分にできることをやって日々の糧を得ている。

私も、自分にできることを少しでも生かせる職場を見つけて、粛々と仕事をするのがいいのだろう。

仕事とプライベートを分けて、仕事は仕事だと割り切ってそれなりにこなし、仕事以外の時間を自分の趣味などに遣って人生を楽しんでいる人はたくさんいる。

私もそのように割り切って、適当な仕事を見つけて定時で帰り、その後は芝居を観たり飲みに行ったりして、それで満足してればいいじゃないか、とも思う。

けれど、今の職場に移る前はそうした生活をしていたのだ。

私はその生活に飽き、刺激がほしくて、今の職場に移ったのだった。

 

村上春樹の小説のなかに、「ぼくらはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。手をのばして定められた量の時間をたぐり寄せ、そのままうしろに送っていくことができる。日常的な反復作業として──場合によってはとても手際よく。そう考えるとぼくはひどくうつろな気持ちになった。」という一節がある。

この小説の主人公は人生においてすごく大切なものを喪失してしまったが、それでも人生は淡々と続いていく──ということを表している。

「時間をたぐり寄せ、そのままうしろに送っていく」。

結局のところ、これが人生なのか、と思う。

そう考えるとなにも希望がないような気もするが。

自分がどう思おうと、結局人生は続いていくのだ、自ら死なない限り。

だったら、少しでも楽しく、充実した人生を送ったほうがいいに決まっている。

誰だってそう思っている。

だから皆、そのために必死で生きているのだ。

 

山田花子のマンガに登場する女の子の台詞に、「存在には目的が必要なのかー?」というのがある。

担任の先生に、誰でも目的があってこの世に生まれてくるんだ(だから頑張れ)、みたいなことを言われ、それに対して心のなかで突っ込んでいるのだ。

私はこの女の子の気持ちがよくわかる。

なんで「人生設計をきちんとして目標を達成する」ことがこれほどまでに重視されるのだろう。

自己啓発本でよくあるけれど、20代でこれをやって、30代までに結婚して出産して、40代はこうやって生きて、老後はこうするのが充実した生き方……みたいな。

今は格差社会

だから皆、振り落とされないように、下流にならないように、必死になっているのだろうか。

だけどそうやってレールに沿って生きるなんてつまらない。

人生設計なんて、別になくていいじゃん、と私は思う。

そもそも「時間をたぐり寄せてうしろに送る」ことが人生なんだとしたら、目標なんていらない、ってことになる。

けれど、どっちみち長い人生を生きていかなきゃいけないんだとしたら、目標もなくぼんやりと、その時々の楽しみだけを見つけて生活していてもつまらない。

人生の目標、というほどのことでなくても、自分はなにが好きでどういう状態でいるのが居心地がいいのか、そのためにどうすればいいのか、みたいなことは最低限考える必要はあるだろう。

 

先日、仕事関係の人たちと飲みに行ったのだが、皆仕事の話を熱心にしていた。

皆クリエイターなので、仕事の話というより表現の話だ。

彼らはお金のために仕事をする、なんていう気持ちは皆無で、いかに自分のやりたいことを表現するか、ということにこだわっている。

私は彼らがすごく眩しかった。

だって私は、目先のことを考えるので精一杯だから。

でも、彼らも別に裕福なわけではなくて、かつかつの生活をしながら、それでも自分のやりたいことを追求しているのだ。

クリエイターはまず報酬ありきで仕事をするのではなく、そうやってやりたいことを追求し、やりたいように表現するというのが大事なのかもしれない。

それでうまくいけば、食べられるようになるということだろう。

リスクを考えていたらなにもできない。

先述した、新たな媒体を立ち上げた人だって、見返りなんてまったく求めていない。

けれど、その人はそうすることが可能な環境にあるのだ。

結局のところ、やりたいことをやるんだという気持ちだけでなく、それが実現できるかどうかは、その人の置かれている環境や人脈によるのだと思う。

もちろんそうした環境を作ったり人脈を育むことができるのも、その人の能力だし、運もある。

 

それが実際にできるかどうかはともかくとして、自分のやりたいことを見つけて追求するのか。

あるいは仕事は仕事と割り切って、安定した仕事をやりながらライターの仕事をやったり趣味を充実させるのか。

自分はこのどちらがいいのか、もうとっくにわかっているのだ。