うつし世はゆめ

旅行記ほか、日常生活で感じたことなどを徒然と。

女の法則

「わたしがまだ若かったころは、たくさんの人がわたしに進んで話しかけてくれた。そしていろんな話を聞かせてくれたわ。楽しい話や、美しい話や、不思議な話。でもある時点を通り過ぎてからは、もう誰もわたしには話しかけてこなくなった。誰ひとりとして。夫も、子供も、友だちも……みんなよ。世の中にはもう話すべきことなんてなにもないんだというみたいに。」(村上春樹スプートニクの恋人』より)

 

「人が視線を投げかけるのは、三十代、四十代、五十代と緩やかな、しかし容赦のない確実な線を描いて減っていき、今は、もう誰からも見られない。だから自分のほうで人を観察する。これが女の人生の法則というものである。」(水村美笛『母の遺産』より)

 

 

最近、こういうことをよく考える。

35を過ぎたころから、私は人に、特に男の人に、話しかけられなくなった。男というのはある意味残酷な生き物だと思う。自分が目の前の女に興味を持たなかったら、その素振りを隠さない。

若いころは、私はいろんな人に自分のことをあれこれ聞かれた。それは鬱陶しいほどだった。ところが今は……。その落差がすごくて、時々不思議に思う。自分ではまったく意識しなくても、周りが勝手に私を「もう若くない女」と見なす。そして、あたかもその話題に触れてはいけないというように、私には誰も恋愛とか結婚とかの話を振ってこない。別に私も自分のそういう話を他人にしたくはない。だから、皆は私の色恋沙汰なんて知らないし、そもそも私は誰にも興味を持たれていない。そう確信するのは、結構きついことだ。誰も私に興味を持っていない──。誰も、というのは身近な人を除いてだが、私はもはや、私を知らない人に対して、少なくとも第一印象では、なんのアピールもできないということだ。

それは、会社に行っても、飲み会に行っても、如実に感じる。それどころか、道を歩いているだけでひしひしと痛感する。とにかく人が話しかけてこないのだ。ナンパもなければスカウトもない。キャッチもない。それどころか、ティッシュ配りの男の子──キャバクラ嬢や風俗嬢募集のティッシュとかを配っている──にすらスルーされる。私はもはや、彼らに「女」と見なされていないのだ。

若さというものが自分から失われたのは仕方がない。それにともなって美しさとか、ある種の自信のようなもの、きらきらしたなにか、というものが、永遠に失われてしまったのだろう。そしてそれに代わるもの──知性だったり落ち着きだったり、そういう大人の女に必要な資質──というのも今の私には身についていないのだろう。あるいは、そういうものが身についていたとしても、やっぱりもう男の人の視線は集められないのだろう。別に過去を振り返って今の自分を嘆いているわけでは全然ない。ただ、世の中ってほんとにそういうもので、男も女も、露骨にそういう態度をとるものだ。逆にいえば、世の中というものはその程度だ、ともいえる。だから、万一この日記を若い女の子が読んでいたら、覚えておいたほうがいい。女は35を過ぎたら話しかけられなくなる。それは嘆くことでも悲しむことでもなく、ごく普通のことなのだ。

ここからどう生きていくか、という話。

「若い女」ではいられなくなったとき、女はどう生きていくのだろうか。

私は今日、美容院に行って白髪を染めた。最近大人ニキビに悩まされているので、少し高いスキンケア製品をそろえた。体型を維持するため、甘いものや油っこいものは食べないようにしている。出勤前に毎日マニキュアを塗る。それは努力でもなんでもないことだけれど、そういうことをしている最中、ふと虚しくなるのも事実だ。一体私のことを誰が見ているというのだ?

昔から私は過剰ななにか、刺激的ななにかを求めてしまうという癖があった。しかし、歳をとると、そういう自分の求めているものを表に出さなくなる。いや、出せなくなる。世の人は歳をとった女性に「落ち着き」を求める。歳をとった女の恋愛になど、誰も興味を持たないし、そもそもその歳の女に性欲というものがあるのかどうかということにすら関心を持たない。だから女は歳をとったら、「もう歳だから」と自分に言い聞かせ、いろいろなことを諦めて穏やかな落ち着いた人生を歩くものなのだ。水村美笛的に言えば、それが女の人生の法則というものである。

しかし、人生の法則に従わない女もいる。どんなにカッコ悪くても、人から非難されても、気持ち悪いと思われようとも、彼女たちは意に介さない。ジタバタと人生にしがみつき、自らが女であるということにしがみつき、恋愛にしがみつき、性にしがみつく。仕事にも趣味にもしがみつく。そしてそこから少しでも甘い汁を吸おうとする。だんだんしぼんでゆく己の人生に対抗するかのように、貪欲に楽しもうとする。その姿ははたから見ればみっともないかもしれない。だけど、彼女たちは彼女たちなりに必死で生きている。

もちろん程度というものはある。行きすぎればはしたないだけだ。それに、そういう煩悩から解放されているほうが美しいし、本人も幸せかもしれない。

けれど、私はやはり法則に従わない女でありたい。穏やかに落ち着いてなんか生きてられるか、ヘンッ!という感じだ。