うつし世はゆめ

旅行記ほか、日常生活で感じたことなどを徒然と。

変わらないもの

笑っていいとも!グランドフィナーレ』を後半から見た。私は笑っていいとも!をよく見ていたわけではなかったけれども、それでも32年もの間続いてきた国民的番組が終わってしまったことには様々な感慨を抱いてしまう。

毎日毎日ただ生きているだけで時間は経つ。時間が経てば人も場所も変わる。放っておいても世の中はどんどん移り変わってゆく。いくら「変わりたくない」と思っていても、時が経てば変わらざるを得ない。それが「生きる」ということだから。物事は始まればいつかは終わるし、人は生まれれば必ず死ぬ。

お昼にテレビをつければ、当たり前のようにタモリが笑いながら登場した。それは皆にとってはありふれた日常の光景であり、「変わらない」となんとなく思っていたもの。けれど世の中に「変わらない」「終わらない」ものなんてあるわけがない。だから番組が終わるのは必然なのだ。

けれど、最終回に、これまでのレギュラーやゲスト、出演者たちが、まさかここまでと思うほど大勢出てきて、多くの人が涙を流しながら番組がなくなることを惜しみ、タモリを労い、感謝の気持ちを示している姿を見て、変化し続ける世の中に、いやそれだからこそ、人は「変わらない」ものを求めているんだ、と思った。

32年もの間、毎日昼に笑っていいとも!に出続けたタモリ。病気や事故以外では休むことなく、毎日毎日スタジオアルタに通い続けたのだ。最初のうちは、それはささやかなことだったかもしれない。けれどそれが何年も続き、やがて「お昼の顔」として定着し、人々が皆「あって当たり前」と思うほどに長く続くことになった。毎日のささやかな積み重ねを、長い年月やり続ければ、それは偉業となる。毎日同じ番組に出続け、それを32年もの間続ける……改めて考えると途方もない話だ。

 

しかし、もしかしたら人は誰しも、タモリにとっての笑っていいとも!のような、ずっと続けているもの、「変わらない」自分の軸のようなものを持っているのではないだろうか。というより、自分自身でそういうものを意識して持つことで、変わり続ける世の中を、なんとかかんとか渡っているのではないだろうか。

毎日同じ会社に通い続けるというような社会的なことから、毎日家族のためにご飯を作るといった日常的なことまで。意識していなくても、あるいはときには嫌になっても、それがその人の軸であり、「変わらない」と信じているものなのだ。そういう個人的なものでなくとも、古くからあるしきたりや四季の行事など、無意識のうちになんとなく行っていること。そういう、ささやかだけれどずっと続いてきたものを意識的に続けるということは、日々移り変わる世の中を渡る上で、大切なことなのではないか。

笑っていいとも!が終わったときに、多くの人が集まり、番組に別れを告げる。それもまたセレモニー的な意味合いがある。けれど、こういうセレモニーすら軽んじられてしまうこともある。たとえば、長寿番組が最終回を迎えてもセレモニー的なことをやるどころかたいして告知もせず、なんとなく終わり、いつの間にかなくなっていた……とかいうことも起こりえる。合理的に考えれば、終わってしまうものはどうやっても終わってしまうのだから、そこに時間を割いても仕方がない……ということになる。けれどそれって、人が死んだのに葬式を出さないようなもので、ある意味しきたりを無視している、ともいえる。終わるときにはきちんと挨拶をして出演者を労い、感謝の意を示す。一見当たり前のことを、当たり前にやること。そういうことが、延々と変化し続ける世の中で、時間に区切りをつける行為となり、人の心の支えになったりするのかもしれない。

逆に、そういう当たり前のことをやらなくなると、どんどんいろんなことが面倒になってやらなくなってしまう。しきたりを無視し、たとえばお正月にお雑煮を食べるなどのささやかな四季の行事もやらなくなれば、どんどん時間の区切りがつかなくなり、なんかもうすべてどうでもいいや、みたいになってしまうのではないだろうか。