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女ならでは

女優7人でやっている演劇ユニットの芝居を観た。作・演出も女性。チラシのキャッチコピーには、「同世代の女8人で紡ぐ『女』という名の人間の物語」とある。なので、「女性ならでは」のなにかを期待して観に行ったのだが、その芝居は女性だからとかいうよりも、普遍的な人間としての生きづらさみたいなものを描いていた。それはそれで芝居としては面白かったのだが、私は、女の人が作る女についての芝居、というものが好きだ。単純に自分が女だから、それを観て共感したり反感を覚えたりという、生々しい感情を抱くことができる。私が芝居に求めているのは刺激なので、とにかく生々しいものを観たいのだ。そういう意味では今日の芝居は私の好みではなかったのだけど、考えてみれば、別に女性だけでやっているからといって、女性ならではのなにかをやる必要はない。女性だけで普通の芝居を作ったっていい。「女だけでやる芝居」というと、なんか女同士のドロドロしたものを期待してしまいがちだけど、「女だから」と意識しすぎるのも、違うという気がする。かといって、それをあえて意識しない、という作り方も、逆に意識していることになってしまう。

去年、芸劇で、若手の女性演出家5人が集まってそれぞれの作品を作ってオムニバス風に上演する、という興味深い企画があった。そのときも、女性演出家が作っているけれども、女性ならではというのを意識しない作品、という括りだった。女性の情念というものよりも、個々の感性が出たユニークな作品ばかりで、興味深く観た。今はこういう、若い世代で意欲的な女性演出家が出てきている。それは非常に頼もしいことだなと思った。けれども彼女たちが本当に自分のなかの女というものを意識していないのか、それはわからない。そもそもその企画自体が、女性演出家というものをフィーチャーしているわけだし。

女に生まれるということは、あらかじめなにかが欠落しているということかもしれず、女はつねに自分が女だということを意識することになるのかもしれない。私も以前は自分が女だということを強く意識し、主張していたと思う。男を敵対視し、女は損だという被害者意識を持っていた。けれど今は、男と比べて女はどうとか、そういうネガティブな考えを持たないようにしている。ネガティブに考えたところで自分が女であるということは変わらないわけだし、だったらポジティブに考えたほうが人生楽しい。たとえば、女同士は難しいとよく言われるけれど、やっぱり女同士のほうが話は合うし、単純に一緒にいて楽しい。相手によっては難しかったり気を遣ったりもするけれど、それは相手が男でも同じだし。

だけど私は、芝居としては、女同士が足を引っ張り合うような、醜い姿をさらけ出しているものが好き。私自身、女同士のメラメラする間柄、というものに、なんか興奮を覚えてしまうのだ。そこにはメラメラする嫉妬心のほかに、相手に対する羨望とか自分の欲望とか、生々しい様々な感情が潜んでいる。憎らしい相手でも、同じ女だから共感する部分もあったりする。逆に、「素敵な女性、私の憧れ」と言っていても、腹の底では死ぬほど嫌っていたりもする。女が女に寄せる感情というものは、ほんとに一筋縄ではいかない。