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映画『恋の渦』と『愛の渦』

先日、三浦大輔原作・脚本、大根仁監督の映画『恋の渦』を観た。

私は舞台版も観ている。

映画は非常に舞台に忠実な作り。ドキュメンタリータッチで、役者の演技も非常にリアルなので、舞台と比べても全く違和感がなく、気がつけば物語のなかにぐぐっと入り込んでいた。

さらに映画ならではの面白さ、巧みさが満載。舞台版はワンシチュエーションからフォーシチュエーションに変わるのだが、それを違和感なく映像化していた。別の部屋に切り替わるときのスピーディーさ、ある部屋で起こっていることと別の部屋で起こっていることの連動性(携帯電話で別の部屋の登場人物が繋がっていたり、ある部屋で発された台詞が、パッと別の部屋に切り替わって違う意味で発されるなど)の処理が非常に見事。

舞台ではよく見えなかった登場人物たちの表情などがアップで映され、そのやりとりも迫力があって、舞台よりわかりやすく、より物語性・エンターテインメント性が強く出ている。さらに、時間で区切ることで、観る人は「次どうなるんだろう?」とハラハラしながら展開を見守ることになる。

また、主人公がいないこと、そして、出演者が全員それほど有名な俳優ではないという無名性が、よりリアルな表現を生み出している。

なんて巧みな作りなのだろう。大根さんの映画監督としてのすごさを改めて感じる。そして大根さんはこの舞台が本当に大好きで、舞台の空気や三浦さんの脚本をすごく尊重しているんだな、ということがひしひしと伝わってきた。だからこそこの映画は、原作者以外の人が作っているにも関わらず、ポツドール色が強いのだ。

そして改めて三浦大輔の脚本の面白さ、巧みさに気づく。大根監督によって脚本の面白さが増幅されている。これがプロの映画監督の仕事だ、と思った。

 

今公開されている三浦大輔脚本・監督の映画『愛の渦』も観た。

私は舞台『愛の渦』の初演・再演とも観ている。

舞台にほぼ忠実に作られた『恋の渦』に比べると、映画『愛の渦』は舞台とは違った視点で描かれており、舞台とは別物として楽しむものだと思った。

舞台との大きな変更は、映画では「主人公」が設定されている点だ。

舞台では『恋の渦』と同様、主人公が存在せず、登場人物すべてを等価に見せていた。観客は俯瞰して、いわば「神の視点」で舞台上の登場人物たちの生態を覗き見することになる。三浦大輔の作品には、こういう手法のものが多い。

一方、映画では主人公がいて、その主人公の視点で「物語」が描かれる。ある意味王道の映画の作り方と言えるだろう。

この変化は、三浦大輔の作風が変化したことを現している。

過去の三浦作品は、露悪的で、最後に観客を突き放して終わるというようなものが多かった。しかし近年の作品は、どこか救いを持たせるような終わり方をしているものが多い。

三浦さんは毎回違うことをやろうとする人だから、単純に今までの作品の作り方に飽きてしまい、新しいことをやろうとしているのだと思う。その流れのなかでの今回の映画なのだ。

三浦さんのその試みは、商業的に成功している。

もともと三浦さんの脚本は、登場人物たちの発する台詞のやりとりがリアルで面白く、ときに爆笑を誘うような絶妙なセンスがある。

観ていて「あるある」と共感し、登場人物たちの吐く台詞に思わずクスリと笑ってしまう。登場人物たちが必死になればなるほど、俯瞰してそれを観ている観客は、彼らの言っていること、やっていることの愚かさ、滑稽さにニンマリしてしまうのだ。

映画においても、観客が俯瞰して観ることで登場人物たちの滑稽さが際立つ、という手法が一部に使われている。

しかし、映画はあくまで主人公の視点で描かれた「ある一夜の物語」なのである。

冒頭、ニートである主人公が、逡巡しながらも親から送金された金を下ろし、乱交パーティーの会場へ赴き、その場でその金を払う。

乱交パーティーに来ていたある女子大生と行為を繰り返すうちに、彼女のなかに自分と共通するなにかを見出し、それが次第に恋愛的な感情へと変わっていく。乱交パーティーという場に赴き、虚無感に溢れた現実を忘れてただただ己の性的欲望を剥き出しにしようとしていた主人公だが、実は恋愛的なものを求めていた。その感情は非常に人間らしく、共感できる。乱交パーティーという場でいわゆる「彼女」を見つける、ということは、普通はあり得ないことなのに、舞い上がった主人公は偶然女子大生の携帯番号を知って心を踊らせ、彼女から電話がかかってきて喜び勇んで待ち合わせの店へ赴く。しかしその恋愛への期待は一瞬で終わる。現実はやはり残酷で、主人公の抱いている虚無感はなにも変わらないどころか、むしろ一瞬でも恋愛という幻想を持ってしまったことで、さらなる虚無に突き落とされるのだ。

舞台でも大きな枠での物語はあり、それに沿った構成となっている。登場人物それぞれのエピソードは映画と同じだ。しかし舞台においては物語性は重視されていない。描かれているのは物語の先にある、剥き出しにされた人間の欲望、醜く滑稽な人間の本性だ。余計な物語がない分、映画より舞台のほうがこのテーマがより浮き彫りになっており、ヒリヒリとした絶望感が漂っている。

映画ではそれに加え、一人の青年の虚無、そこから広がる現実の残酷さが描かれる。舞台とは異なる映画ならではの手法で「物語」が語られ、それにより一般に広く受け入れられやすい作りとなっている。

つまり三浦大輔は、同じ題材を用いながらも異なったアプローチで、『舞台版愛の渦』と『映画版愛の渦』という二つの作品を生み出したのだ。